昭和48年01月01日 元旦祭の御理解



 今朝のご理解に、御理解九十九節、ならびに御理解百節を続けていただきました。九十九節といい百節といい、何とはなしにその九十九ということ、百節と言う事からだけでも感じさせて頂いたことでございますけれど、九十九というのは、苦に苦が重なっておるという、これを私は人間の世界だと、この世は確かに苦の世だ、苦の世界だとね。だからお道の信心は、そのそうした人間の誰しもが感ずる、この世は苦の世、苦の世界だということに、いいや、というものは、おらんと思うです。
 それぞれにやはり、やはり苦しきことのみ多かりきと言う事に、そのなって終わるので御座います。それを金光様のご信心ではです、ねその九十九に、もう一つのものを加えさせていただいて、ね、念願成就というですか、ね、又は神願成就と申しましょうか、私どもの願い神様の願いが、同時に成就する所の世界を私は百の世界だとこう思う。今日私は、九十九節と百節初めて、あのご理解を二つ重ねて頂いた。
 そいでその九十九節と言う事、百節と言う事から只今申しました様な事を、感じさせて頂いて九十九節の御内容、または百節に説こうとなさっておられる御内容を、ま分からせて頂いたのでございます。ちょっとこれわんわん言うですね。誰か言うて下さい。ちょっと響きすぎる。ですから金光様の御信心をさせて頂く者、金光様の信心を頂く者は、ね、この世は苦の世、苦の世界ではないわけなんです。
 この世はもう真に有り難い、勿体無い畏れ多いの世界、又はそういう生活がでけると言う事が、金光大神お取次ぎの道なんです。所が金光様のなら、御信心を頂いておりましても、この百節と言う所、百と言う所まで、頂いておるという人はごく少ない。矢張り苦に苦が重なっておるという感じ。そこで今年という今年はです、お互いがその百を目指しての信心を頂きたい。ほんとに金光大神御取次を頂いて、おかげを頂いておる者としての、あり方と、おかげというものを身に付けて行きたい。
 今年は何かそれが頂けるような気がする。毎日一時の御祈念は、若い先生方が中心で、交代で一時の御祈念を仕えます。一時のご祈念だけは、霊神様のご挨拶を申し上げるときに、御本部で祖先賛辞ではなくて、やっぱり御霊様を拝むときに、唱える言葉があるんです。そりゃもう簡単な短い言葉なのです。それを私もここ一時に出てきて、皆さんの一生懸命の御祈念を聞いておる。ですから一時のご祈念だけは、そういう御祈念をさせて頂いておるのです。短いのですもう随分長いこと続けております。
 ここからいつもきいとるんですけれどもね、覚えはせん。覚えようという気がないもん。私はもう一時の御祈念をする必要はないし、私はもう祖先賛辞いっちょ覚えときゃ、御霊様のほうは、いいと思うとるもんだから、覚えようという気がない。ですから覚えません。こりゃそうです私共はあの、拝詞を奏上さして頂かにゃならんね、生神金光大神様、天地金乃神様と拝詞を唱えさせて貰う。私どもはあのさあ明日から唱えるというときには、前の晩に一晩で覚えてしまう。
 私はとうとうあれは見らんなりで、あの読みながらとなえる事はしなかった。覚えようと思ったらもうほんと、一時間でも覚えられる。問題は覚えようと思うか思わないか、行おうと決心するか、しないかと言う事なんですよ信心は、ね。そりゃそうじゃろうばってん、ちゅうから、そらそうじやろうばってんで一生が終わってしまわんならん。お互いがその気になるということ。ね。この世をなら、九十九の世界で終わってしまえば、それで良いならそれで良い。
 けれどもね、ほんとに百の世界があるなら、ね、この世は苦の世だな、苦の世界だなと、という私は、そういう感じ方で一生を終わらせて頂くか、有り難い勿体無いで、一生を終わらせて頂くかと言う所にです、本気になってお互いが、信心の稽古をさせて頂かなければいけない、いや本気にそうならそう思わなければいけません。成せばなる成さねばならぬ何事も、ね、成せばなる成そうと思わんから成らんのだ。しかもそれは難しいことではないのです。ね、見やすいことなんです。
 所が中々難しい。例えばそう言う事になりませんでも、おかげを頂いておる。おかげで家庭も円満にいきよる。おかげで商売も繁盛しよる。おかげでま病人もない。ま至ってまおかげを、有り難い金光様の信心のおかげで、有り難いとこういうておるんですけれどね。そのおかげだけではね、やはりおかげに終わってしまうのです。ね、おかげですから必ず消えます。そのおかげが言うならば、お徳にならにゃいけんのです。
 昨夜の除夜祭に、ね、たびたびお話をする事ですけれども、聞いて頂いたんですけれども、ほんとに先代あたりが、御信心によっておかげを受けられたというそのおかげは、どうして、どう言う所から、ああいうおかげになっただろうかという、言わばおかげの秘密が隠されてあるのです。だから矢張り繰り返し、お徳を受けられた方、のお話などを聞かせて貰うたんびんに、何かを得る事がでける。
 昨夜私は、久留米の初代の石橋先生のお話をさせて頂いた。ね、人物も素晴らしいお方であった。御信心もおできになられた。人もどんどん助かるようになった。教会が大きゅうなれば大きゅうなるで、それでも矢張り御用の方に打ち込んでいかれるから、借金はいやが上にもたまった。とうとう当時の金で八千円、八千円という、ね、今からいや、八千円、たいした事ないけれども、当時お米が十円という時代の八千円なんです。ね、しかもくる年もくる年も、その借金の利払いだけ終わった。
 例えば今日のようにお祭り、元旦祭を仕えになった。そしておうらに下がられてから、ご直会を頂かせて頂いて、ね、お神酒の所謂お杯をこう持ちながら、ふっと先生の心の中をかすめたものは、はあ今年もまた利払いで終わらんならんかなと思うた。ね、あれ残金がずっとこう減っていきよっとですね、まいくらか楽ですけれども、利払いばっかりせんならんなら、こげんじゅつないことはないと思う、ね。今年もまた利払いだけで終わらんならんのかなと思われたら幽明から、ね、言うなら先生の頭上に声があった。
 もう間違いもなし、紛れもない四神様のお声であった。二代金光様のお声であった。はっきり頂かれたお言葉が、「八百俵の徳を授ける」というお言葉であった。びっくりされた。ね、神様が八百俵の徳を授けると仰せられる。よし神様が下さるのなら、本気で頂こうと決心された。ね、ここのところがです、神様が下さろうというなら、一つ本気で頂こう、頂きもらしてはならない、漏らしては神様に対してご無礼になる。
 それからいままでおできにならなかった、信心ができられるようになられた。九州中の、いや九州の出社関係にもう、四神様のお徳を一生懸命、説いて回られた。これは形のこと、ね、そこん所はお伝記に載っておりませんけれども、恐らくは心の上においても、ね、こう言う事ではいかん、こんな事じゃと思われる様な所に、私は踏ん切りをお付けになられての、形の上に表れてきた、そうしたご信心ご修行であったと思う。
 その年に当時、久留米の教会の、大物といわれるご信者さんがたが、でけたといわれております。昔はまるまんマーケットというのがありましたよね。徳永さん、大変な大きな、おうちだった、大変な財産家、それから国武、絣のあの国武工場の、国武さん、通町の卸屋街の、商店街が、の人たちが、おかげを受けられた、その時代に、久留米の光橋先生ん所辺りもおかげを頂いておる。
 卸や街がずらりおかげをもう親近、こんけんの芸子さんたちがですね、あちらの御大祭の時にはもう、あの見番に電話かけても、芸子さんがおらんと言う位に、いわばもう、金光様へ皆お参りしてしまうというように、そういう御ひれいになってきた。何年も何年もね、どうにもできなかった、それこそ利払いばかりだと言うて、思われておられたその借金がです一年足らずで、瞬く間に返される事が出来た。
 その間には色々大変おかげを受けられた信者さん方のおかげ話がいくらもあります。先生のご信心がです、神様が下さろうというのである。だから受けようと言う事に、ね、いかに神様が下さろうというても、それを受け答えれなかったら駄目です。私は椛目時代にまだ始めの頃です。まぁだ所謂借金も沢山あるしそれでももう、椛目ではぼちぼち人が助かっておるという時代でした。
 夜の御祈念を終わらして頂きましたそん時に、頂いたことがね、もうそれこそですね目の下三尺、四尺といわれないもうとにかく、大きな鯉なんです。それがもうまな板の前にこう、それを私が上からこう押さえとるけど、あんまあり力が強いから、押さえきらんでおるというお知らせを頂いた。鯉というのは今ここでもお徳とこういう。神様がこういう素晴らしいお徳を下さろうとしておる。こういう力を下さろうとしておるけれども、いわゆるこちらに力がない。受ける力がない。
 もてあましておる。そういうお知らせを頂いたときにです、本気でこりゃ力を受けなければならんなとまた、あらたな信心に勢を出させて頂いた事であります。是もそういう時分の前後してからのことだったと思うんです。ある御祈念をさして頂いておりましたら、親のお国替えということを頂いた。ほりゃびっくりいたし、ご神前で頂きました。もうそれこそ、肝の尾が切れるように、びっくりしました。
 神様ちょっと待って下さい。私が本気で信心にならせて頂いておるのも、この親に安心してもらいたいばっかり、この親に喜んでもらいたいばっかり。ようやく人が助かるようにもなり、ま借金こそ持っとりますけど、言うならここに見通しもついて来た。それにここに親が亡くなると言う様な事であったらもう、目も当てられません。どうとかおかげを頂かせてくださいますように、ということをお願いさせて頂いた。
 そして私の心の中に浮かばせて頂いた。ね、子供がその時分に何人でしたでしょうか、三人か、四人かおりましたでしょうか、ね、神様からなら、どの子か一人でも、その代わりにね、お引き取を頂いてもいい、親を助けて頂くなら。そんならどの子かというてね、どの子でなんて指名できるもんじゃないですよ。ね、そんなら四人なら四人おるとに、ありがもう言うこつきかんけん、ありが死んだがいいなんてん、絶対思えるもんじゃないです、親の心というものは。
 けれどもやむにやまれんなら、あなたがその四人なら四人のうちのどれでも良いからです、ね、お引取り下さって、親の命を助けて下さいというお願いをさせて頂いた。そしたらね神様が、子供の命なんて言わずに、どうして私の命をと言わんか、と。私をのお引取り下さって、親を助けて下さいとなぜ願わんかと。それで私は申しました。それは親が亡くなることよりも、子供が亡くなることよりも、私が死ぬるということが、もっともっとつらいことなんです。
 それは死ぬると言う事が辛い事ではない。神様が私に仰せられた。いうならば当時百年祭を目指して、まだ後十年あるという時代でした。だからその十年祭を目指して全国からです、選手を選抜してその中からです、その選手の中に、私も加えてやるというお知らせを前に頂いたこともあった。だからその百年祭を目指してです、いうなら、神様の御役に立たせてもらう、世の御役に立たせて貰う、人の難儀な事の為に、人が助かる事の為に御用させて頂くという決心をしておる私にしてみればです。
 私の命を差し上げるわけにいはまいりません。ですから、子供のどれかの、どの命をです、引き換えに親の命を助けて、もうそれはほんとに真剣でした。ね、もうほんとに神様と、なんていうですかね、もう真剣勝負ちゃ、このことでしょう。こっちの言いようがまちごうたら、さっとやられるような感じが、まあ、今こうしてお説教台の上から言うておりますけれども、そんときご神前で、私がどの子からでもと、ね。
 もうそのとき自分の頭の中を掠めるものは、さ、あれこれとどの子をお引取り下さるだろうかと、思うただけでも切ない、胸がつぶれるような思いがする。けれどもそれにもましてです、ね、なら私の命はもっと大事なのだ。お役に立たなければならない、また、神様御役につこうて下さろうというておられる。ね、百年祭を目指して選手としての信心の言うなら修行を本気でさせて頂いておるときなのですから。
 途端にです神様がね、あの小さい三球ぐらいのラジオから六球ぐらいの大きなラジオに変わるところを頂きました。神様の言うならばお試しであった。ね、その腹がでけたならば、というそれが力であった。ね、言うなら三球のラジオでは、なら日本国中なら日本国中は聞こえますけれどら、外国は聞こえません。ようにですね。その時分に私の、いうならば、世界の隅々のことまで、お知らせを頂くようになった。
 まあ当時あのインドのガンジーという方が、生きておられたですけれども、丁度あの断食修行の御様子をね、もうありありと、拝ませて頂いた。はぁ三球から六球になったらこういうところまでも、見えたり聞こえたりするようになる、そういう力を頂いた。私は最近、もう口を開けば、ね、合楽の今の取り組ませて頂いておる、五つの願いと言う事をくる日もくる日も、そのことを皆さんに頼むように、お話をしておる。
 なぜ私がお話をしておるか、なぜ頼むように言うておるか、それには私はちょうどその時のような、一つの確信を得たからなのです。今私の言う事を聞くならば、おかげが頂けれるという確信がでけたからなのです。この研修室の、今のあの隅の所にですね、もうこんな大きなテレビが、あのそこに据えるとい、畳を何枚もはぐってある。そいでその向こうの、あの土間の上にじゅうたんが敷いてある、そこん所においてある。裏の方から見るともう沢山の線が、まだあの見えるようなお知らせを頂いた。
 報徳祭を私はこらぁ境に、と思いましたけれど、おそらくもうここにはです、いうならば、三球のテレビから、六球の言うならばラジオから、もうテレビ、ラジオじゃない、テレビでね、テレビの徳とでも申しましょうか、しかもこういう大きな、今まで見たこともないような大きなテレビがです、合楽のお広前には、どんと座っているんだ。そういう力らがもう合楽にでけたんだ。言うなら例えばこうして、ね。
 純大祭的なことならばです、言うならこのの障子を取りはろうて、あの新館もいっぱいに人が集まってくるほどしの、言うなら、おかげを頂いておかしくはないのだ。これが私のいうならば力なのだ。ね、所がその力のまだ半分の人が、集まっていない助かっていないと言う事はです、これはどうでも、沢山の人が助かって頂くためにです、ね、この五つの願いが成就していくことのの、願いを皆さんも共々になさっていかなければいけないと言う事をです。
 まあ頼むように皆さんに聞いて頂いておるわけでございます。所が中々今申しますように、ね、私がここで、もう随分長く昼のご祈念が仕えられる、短かぁい言わば祖先賛辞よりも短い、その唱えごとをです私自身、全然覚えようとも思うていないから、全然分かりません。覚えようと思やあ、一時間でも覚えられることなのです。私がいかにここからです、口をなら、すゆくして皆さんにこのことを申しましても、皆さんがただ聞いておられるだけで、ほんにそうだという決心をなさらなかったら。
 いつまでたっても、おんなしことです。私は今まで二十数年間、お導きと言う事を言うてこなかったです。それは所謂自分の力というものを、知っておるからです。百人しか持てない力に、百五十人集まってきたら、五十人の者がまた落とさんならん。ですからこちらに力さえできれば、とこう言う所が今は違う。もうこれだけの力を頂いた。まだもう私はもう力が余ってしょうがない。だからこの余った力をです、ね。
 人が助かる事の為に、もっともっと行使したい、使うて頂たい、という願いをやむにやまれん思いで、持っておるわけでございます。皆さんが成程ここ二十年間の事を思うてみると、ね、皆さんほんとにおかげを受けられた。ね、けれどもねそれが徳になっておると言う様なふうに思われない。おかげで商売も段々、おかげを頂いていきよる。ね、家庭もおかげでまあ、円満にいきよる。おかげでまあ、病人も無しにおかげを頂いておるというだけに過ぎない。
 それでいいじゃないですか、もうそれだけ頂いたら、あぁた言う事ないじゃないですか。それではね、私どもがこの世に生きてきた値打ちがないのです。私共はこの世にね、生を受けて、そこに私は少しは、お役に立つ人にならせて頂いて、そこに生きがいを感じさせて頂けれるような生活からでなからなければです、言うなら百のおかげということは、言えないと思う。九十九、ね、やっぱり苦しいからお願いをする。おかげは頂く、そこのところで堂々周りをしておるということではいけない。
 勿論百の世界ということは、力の世界であり、光の世界、お徳の世界である。祝いめでたの若松様よ、枝も栄える、葉も茂るというではないか、生神金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ、ね、堂々周りのおかげでは、子孫繁盛家繁盛にはならないでしょう。日勝り、月勝り、年勝り、代勝りにです、おかげの頂けていけれる道に縁を頂きながら、金光大神が教えてくださることを、私どもが、ね。
 ただ聞いておるというだけではなくて、それをほんとにまともから、取り組んで、それに取り組ませて頂くという、そこから、ね、おかげが頂けてくる。いうならばです、ね、神様が六球のラジオから、今度は大きなテレビと取り替えてやるというほどしのおかげを下さろうとしておるのである。ですからこちらが頂こうという気にならなければいけない。まだこれを言い出してから、ね。
 わずかばかりのことでございますから、皆さんに徹底するということは中々でございましょうけれども、そこのところを体験していかれておる方達が、段々とでけてきた。ですから一つ本気で、皆も、合楽にご神縁を頂いておるすべての人がです、ここのところに気付かせて頂いて、本気で五つの願いを、願いとしての信心生活がでけるおかげを頂かなければならん。
 私どもが言うなら、天地日月の心になること肝要だという信心を、この二十年間一生懸命にさして頂いた。成り行きを大事にさしてもらう、ね、御事柄として、もうほんとに起きてくるすべてのことは神様の御働きだと言う事は、皆さんも段々分かってきた。それがまだ身に付いている、付いていないは別として、ね。この頃久留米の年末の二十八日、佐田さん所の共励会のときに、正義先生が、なんかお話発表しておる。
 ほんとにもう、今年、去年のことをですよ、今年という今年は、親先生が、和賀心時代を創るということに、焦点を置いて、信心を進めておられるから、ほんとにもう一から十までを、和賀心で受けていきたいのは、山々なんだけれども、ああいう仕事をさして頂いておる、ああいう沢山な人を使っておるからには、いろんな人間関係の、難しいこともあるけれども、せめて半分だけは、和賀心で受けておるという話をした。
 もうこの頃はあげん和賀心と言いなさるけん、もう、和賀心、和賀心でいきよるというのは、こりゃもうしらごつになる。けれどもこれはほんとうらしい。ほんとと思う。ね、そこで半分でもです、和賀心にならせて頂くこことに焦点を置いて、生まれてくる体験がです、いよいよ、ね、すべてを和賀心で受けていくことの働きになって行く事だろうと思うのです。でなかったらばからしい。ね、その和賀心に成らして頂くと言う事を、ここでは天地日月の心になること肝要だ。
 これは道理の上から言うても、天は与えて与えて止まないもの、限りなく美しい心、限りなく美しゅうならせて頂こうじゃないか、ね。地の心というのは、もうすべてのことを黙って受けていく。受けて受けて受け抜いていくという生き方。どういう汚いものであっても、黙って受けていくという生き方。そしてそれを自分の心の根肥しにしていこうという生き方。日月の心というのは、もういよいよ、実意丁寧にならせて頂こう、間違いのない生き方をさせて頂こう。
 もうよかよかこんくらいだん、というようなことをない人生でありたい。ね、いわゆるそういう生き方を、私どもはいわば二十年間、成り行きを尊ばせて頂くとか、すべてのことの中に御の字を付けて、御事柄として受けていくという生き方を、私どもは極めてきた。そしてそれを真の信心だと言うてきた。また事実がそうなのである。ね、そういう信心が、もう身に付いて来たものとして、そういう生き方からです、あらたに願われておることが、五つの願いなのである。
 しかもその五つの願いというのは、私ども人間の心の底から、もう絶叫して求めておるところのものであるですけれども、ね、それが与えられるか与えられないかは分からない半信半疑的なも、いや与えられるとは思うていない、そういう心でです、いかに、ね、体の丈夫を願わしてもらう、家庭円満のおかげを頂きたい、子孫繁、家繁盛のおかげを頂きたいこれはもう人間、誰しもが持っておるところの願いなんです。
 けれどもねごうたっちゃ、おかげ頂くという確信を持たずに、願っておったという感じなんです。いまここで言われておるところの、五つの願いというのはね、それはもう確信に満ちたもの、こちらがその気になりゃ頂けれれるという確信が、に、満ちたところの願い。それはなぜか、それはそれがそのまま、神様の願いであるからだと、このごろ結論しております。氏子信心しておかげを受けてくれよということは。
 氏子信心してどうぞまめで達者であってくれよ、どうぞ家庭円満であってくれよ、どうぞ親の代よりも、子の代よりも、親の代と、繁盛のおかげを頂いてくれよ、金光大神は、子孫繁盛、家繁盛の道を、教えているのであるから、ね、その道を分からしてもろうて、日勝り、月勝りのおかげを受けてくれよという、神の願いと、私どもが、そういうおかげを頂きたいという切に止まれぬ、ね、止むに止まれぬそういう願いとが、一つになるのですから、これが、真の信心でなくてなんであろうか。
 四、五日前に同じく、やっぱ、このお話、朝の御祈念の時にさせて頂いた。なぜそれが真の信心なのか、それは神様の願いと、私どもの願いとが一致するところのもの、神様の願いとおんなじなのだ。ですから、なら私どものおかげもやはり神の願いと同じなからなければならんのだ。そこで家繁盛も子孫繁盛もいや、家庭の円満も、ね、体の丈夫健康のおかげを頂くということもです、そういうね。
 もうまたとあろうと思われないほどしの、おかげを頂いて、そのおかげを持って、真実の御用ができます事の為に、天地の親神様の心を心として、神願成就の御用にお使い回しを頂きたいという、この二つの願いを合わせて五つの願いというてある。ね、神願所謂神様の願いが成就する。それをここでは和賀心時代を創る、言うなら二十年間このおかげの頂ける事の為に、二十年間その基礎作りをしてきた。基礎固めをしてきたのですから、ここの所を願わなかったら、ばから勿体無いと言う事なのだ。
 ただ子孫繁盛をお願いします、ただ、健康のおかげを頂くようにお願いします、ね、ただ家庭が円満で行きますようにという、ただ自分だけの、言うならマイホーム的なおかげではなくてです、私どもがね、そういうおかげを持って世の御役に立たせて頂こうと言う一念、いうならば、お役に立ちたい立ちたいの一念が、ね、そういう願いになってくるというところに、真の信心といわれるゆえんがあるのです。
 それを願うことは恥ずかしい事ではない、それを願う事は、神様はそげん繰り返し言うて願うなと仰ることではない。それを信じて繰り返し繰り返し、自分の心の底から、そのことを願わせて頂き、その代わり神様、体の丈夫を願うからにはです、いうならば、大酒大食をする様な事は致しません。体が言うなら不摂生なことは致しません。私はこの願いを立てさせて頂くと同時にです、私が大体がいやしんぼですから、もうお夜食をいつも、一時も二時もなりますと、お夜食を作らせておった。
さあラーメンを作れ、うどんを作れ、まその上にまたご飯まで頂くと言う様な、いうならば、その乱食であった。それを私はもうその翌日から、ぴったり止めさせて頂いた。ね、昨日も運そばで、除夜の鐘を聞きながら、御用頂いた方達とみな一緒に、おそばを頂くというのが、慣例になっておりますけれども、私だけは頂かなかった。体の丈夫を願うからには、私だけではない、家族中の、家族中だけではない。
 合楽にご神縁を頂いておる人たちの上に、その願いをかけさせて頂くからには、そのくらいな修行はせなこて、だめです。それは難しいことじゃない、その気になったらいっちょん難しいこつじゃない。ね、昨日からここの修行生の方達が、一食修行をしておる。御祈念中に一食修行がもう終わったということを頂いた。末永さんがやっとるもんですから、他の修行生の方も、伴奏のように、その一食修行をしよる。
 そこで今年いっぱいで、今夜の運そばから、おそばをから、明日から普通の食事にかえるようにとお知らせを頂いたから、そう伝えさせてもらった。それは末永さんは、いいけど、伴奏しておる人達が、言うという神様のお心持ちではなかったかろうとおもうんです。そこで一同、みんなもとの食事になった。そして今朝改めて、末永さんが、お届けをするのです。親先生私はこの一食修行をさして頂きましたらね。
 人間は一食でやっていけるていう確信がでけたというんです。お道の教師をさせていただいてです、御結界にご奉仕をさせて頂いて、さあ、何べんも何べんもお食事に立たねばならんようなことであってはならない。本気で人が助かることのための御用をさせて頂くためには、親先生どうぞう、私は一生、一食ですごしますち、ね、あらためてこのことはお願いです、というわけなんです。ね、その気になったらできるんです。
 それを、皆さんに一口にいうならば、お夜食的なものやら、ね、いわばこれを一つ食べたらね、これに障ることは分かっとるけれどもというようなことをです、慎ませていただこうというのである。体の丈夫を願うからには、私だけではない皆さんの一家のことを、それを願わしてもらうなら、ね、どうぞ体の丈夫をお願いします、どうぞ健康になりますようにというて酒はがぶがぶ飲む。
 はぁらもう腹いっぱたぶるちゅうて、これじゃおかしい、ね。学生さんが、どうぞ試験がでけますように、てから勉強はせんじゃのほほんとしておるようなものです。それでは道が立ちません。ね、どうぞ、家庭円満のおかげを頂きたい、家庭に不和が無きがもとと仰せられるから、家庭に不和の無きがもと、ほんとに家庭がね、円満であるということを拝み合うていけるということぐらい、人間の幸せはないです。
 またそれが神の機感に叶うのです。だからやが上に、おかげ頂くのですから、そのことの根本になるもの、ね、体の丈夫を願え、何をするにも、体がもとである。ね、家庭に不和が無きがもと、いわゆるおかげを頂くもとになるのである。だから別に夫婦喧嘩はしよらん、親子喧嘩はしよらんというだけではなくてです、これはもう限りがないことです。仲睦まじゅうということ。もう拝みおうていく世界なのですから。
 その代わりに神様、もう決して、こういう御教えを頂いた境にです。人を責めるということは致しません、という修行が、今、合楽では、もうえらいはやっとります。そしてその実を挙げておられます。どうしてこういう有り難いことが今まで気が付かなかったただろうかと言うております。人を責めないことの素晴らしいこと、人を責めるということが、神の機感に叶わぬ。
 これでおかげの頂けるはずがない。神の機感にかなう心、いわゆる人を責めない、責めるなら自分を責めるという生き方。いや目に余るようなときには、どうぞと頼めと言うのである。先日からも家内がお裁縫してから、ろくそにしておる。それを何回も続けてやっとったから、いわばこげなこつして、あぶなかじゃねえか、これはもう責めることになる。そこで何日目かに、私は家内に頼みました。あの、あのどうも裁縫した後は針の散、針がおててだんおらんじゃろうかと思うて、びくびくしてあるかんならん。
 そこにはさみがあると、足をぽんと持っていって、これにつまずくような感じがする。だからお裁縫の後だけはね、ちょっとこう片付けて行ってくれ、と頼むのです。おかげで以来、家内が頼まれてくれております。だから責めるということじゃないのです。頼むのです。ね、ほんとに頼むということほど素晴らしいことはないです。ね、責めはしません、頼むのです。お互いがね、今どれだけ財産を持っておっても、さあ、この財産が、ほんとに子に孫に伝わっていくだろうかと思うたら不安です。
 それが不安どころか、これがますます、末広のおかげになっていくという確信、日勝り月勝りのおかげになっていくという確信を頂くためにです、ね、その財産に裏づけをしときなさい、その裏づけに信心がいっぱい入っていおかなければいけません。その持っておるものに、財産に、ね、そこでどうぞより繁盛を願わせて頂くならば、金輪際これからです、いうならば、無駄使いなどはいたしません、ね、仕事に忠実にならせて頂きます、ね、仕事はおろそかにしてどうぞね。
 仕事が繁盛しますように、商売が繁盛しますようにということは、おかしいでしょう。なら願わんなら、いいけども、願うからには、やはりね、神様だけにご迷惑かけるという信心じゃなくて、私もそのくらいな修行は、当たり前のこととしてさして頂かなきゃいけんのじゃないでしょうか。そこに、神様の御ものとしての頂きかたがでけるから、大事にしなければおられない、そういう心が神の機感に叶うのです。
 そういう信心をさせて頂きながら、家繁盛、子孫繁盛ね、いうならば家庭円満の大みかげを願わしてもらい、ね、体の丈夫を願わして頂くということになる。それでこれはね、もう絶対のものとして、願っていく。しかももう拍手打って願うたら最後、ご神前に向かったら最後、これは絶対唱える。それは私だけではいけん。家内にも頼むがいい、子供にも親にも頼むがいい。子供達にも、ね。
 先日も桜井先生が、ね、親子四人でコタツを囲みながら、親先生がああ仰るからここんところをね。あんたたちもよう分かってくれにゃいけんよ、と言うたらもう子供達のほうが知ってる。ね、そしてほんとにそうだなというて、親子四人の者が、話しておりますというようにです、ね、この頃から正義先生がそこで、月次祭の後に話しておりました。このお話を聞いて以来、私はもう早速、家族の者にご飯のときに頼みました。
 親先生は今こう言いよる、子孫繁盛家繁盛、お前達もそれを願わんはずはないだろう、願うからには、始末倹約をしなければいけないぞ、仕事に忠実にならなければいけないぞ、頼むからここんところは、ということになる。お母さんがちっと要らんもんを、買うて来とると、子供が言う、ほら、こげなもんお母さんいらんじゃろうがの、と子供たちは子供達同士で、そこを反省しおうていく、という。もう、私はこの御理解を頂くようになってどのくらい儲かった知れん、って言うて正義さんが言うとります。
 ああいう仕事をしておりますから、やはり、お友達付き合いの、いわば飲みごとなんかもあるでしょう。けども、そげな嘘なら、どげなうそいうたっちゃよか、ね、今日はちょいと、と言うて、そこで一万円、二万円位は、も浮いてくる。ね、あの御教えを頂いて、どのくらい、言うならばおかげを頂いておるか分からん、て言う意味のことを言うておりましたが、ね、それを頼まなきゃいけん。ね、頼むということは、いかにも照れくさいようですけれども、照れくさいぐらいなことを押しのけていかにゃいけん。
 なぜって、その人もおかげを頂かなければならないから。あなたも参って下さい、照れくさいごとある、何べんも言うとは、ああせからしかと思われることもあるけれども、その人が助かってもらわなければならんのだから。、私が助かることのためじゃない、その人が助かってもらわなければならないから、頼んででもお参りしてもらわなければならん、そういう修行もしてもらわなければならない。
 それがです、今日私が申します、本気でその気になろうというたら、決してどの一か条でも難しいことではないということ、しかも、それが、段々分からしていただいていくとです、ね、四っつめの真実の御用がでけますことのために、これは神様の願いであるところの神願成就のおかげの御役に立たせて頂くことのためにというておるけれども、どうもこの辺のところが、この二つがバランスが取れない。この三っつんとろろだけは、しっかり願う、力がいる。
 けども後の二つの所には力がいらん、と言った様な事を皆さん体験しておられます。そこにね、まぁだ磨きの足りない、改まりの足りないものを感じます。人の事が祈られる事が嬉しい、人の事を願われる事が有り難いと分かるほどしの、言うなら美しい心限りない、いうなら天の心、美しい心にならせて頂く事を極めていかしていくうちにです、人の事を人の事を願う事が有り難うなってくる。楽しゅうなってくる。
 そういう私はおかげの世界に住まわせて頂くと言う事がです、九十九の世界から、百の世界に移行していくこと、移っていくことだと思うのです。金光教祖はそこを願い、そこを受けてくれよという神の願いをひた受けに受けられてお取次ぎの道が開かれたのでございます。ただ九十九までの所をね、おかげを受けたり受けなかったりと言った様な、そして時々腹も立てよる、いやな悪い事もしよる、と言う様な事ではね、それではね百の世界に住む事はでけない。
 百の世界に住んで御覧なさい、これならば私でも極楽行きがでけるぞという確信が生まれてまいります。宗教のいわゆるギリギリの、いわゆる死生観ていうか、ね、そういう、おかげを頂かせて頂きながら、おかげを頂く。この世に生を受けさせて頂いておる値打ちというものを、ね、私どもが、そういうところに置かせて頂く。真実の御用に、使うて頂くことのために、神様の悲願が成就することのために、奉仕させていただけるほどしの、信心を頂くことに、ね。
 この世に生を受けた生きがいというものが、見出され、そこにそれが、行じられてまいりますならです、いよいよ信心は、有り難いもの、同時にです、中々難しい、難しいというけれども、信心生活がほんとにでけなければならないと、今朝から皆さんに聞いてもらった。信心生活というのはどこまでも、神様が中心である。お互いは仕事のほうが中心である。忙しいといや、もうお参りがでけん。
 忙しいといや、もう御無礼する、というのではなくて、信心が中心、信心の中に、生活があるのである。信心が中心、ということになったらもう、いよいよ今合楽で言われておる五つの願いというものは、見やすうして、楽しゅうして、しかも願うたんびんに、身になり血になるような思いがする。今朝から久留米の佐田さんが、お届けしておられましたが、ね、今年という今年はです。
 神様からすべての物に注連縄をかけてとこう仰る。注連縄を付けて、財布なら財布でも注連縄がかかっとる。だからとても、いらんことだん、使われんという、もうこれを徹底して、来年は行こうじゃないかというて、家族中でお話させて頂いたというて、今朝からお届けをしておられましたようにです、ね、お互いがその気にならせてもらうということがまず大事です。
 それを、例えば本気でその信心を頂こうという、ね、気にならなければ、これはもういくらんや、例えばここにどういう大きなテレビ的な、力が徳がここにも備わっておっても、それを受けることがでけません。それに浴することができません。ね、お互いが、頂こうという気になる、お互いが、覚えようという気になったら、一時間でも覚えられることを、覚えようという気がなかったら、ね。
 いうならば、一年二年それをそばで聞いておっても、たった短いお祝詞一つが、私が覚えていないように、ね、まず、その気がでけることを願わしてもらい、今年の信心の、いうなら焦点、いうなら今年の信心の、合楽のスローガンということをです、この五つの願いにかける。ここ二十年間の信心を、土台として、そしてこの五つの願いを願いに
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